志賀泉さんコラム(2014年度)

連載 志賀泉さんのコラムが始まります

 5月号より、志賀泉さんの連載コラムが始まります。作家活動の傍ら狛江社協が運営する生活介護事業所“麦の穂”で知的障がい者の支援に関わる志賀さんは、福島県南相馬市小高区の出身です。自主製作映画「原発被災地になった故郷を旅する 福島県南相馬市」で出演と監修を担当し、各地で精力的に上映会を開催し、故郷を支援しています。
志賀さんのブログ“しがしま21”http://profile.ameba.jp/sigahina/
作品「指の音楽」(2004年太宰治賞受賞)「TSUNAMI」もぜひお読みください。

【こまえボランティア情報第241号(2014年4月号)】

 

第1回「かかわること」

 「かかわらなければ/この愛しさを知るすべはなかった/この親しさは湧かなかった(中略)ああ/何億の人がいようとも/かかわらなければ路傍の人/私の胸の泉に/枯葉いちまいも落としてはくれない」塔 和子「胸の泉に」より。出典『通勤電車でよむ詩集』(塔和子は1929年生まれ。12歳でハンセン病を発症。療養所で詩作をし、昨年没。)
 初めて読んだ時は心に響かなかった。詩の意味が心に染みてきたのは、狛江市で知的障がい者を援助する仕事を始めてからだ。
 僕が務めている施設は自閉症の利用者が多い。自閉症者は他人とのコミュニケーションが苦手だが、そんな彼らとどのようにコミュニケーションをとるか、それが僕の仕事のむずかしさであり、また面白さでもある。
 彼らと付き合いながらつくづく思うのは、人は人との関わりに中で成長するということ。そういう仕方でしか成長しないんだということ。もちろん、僕自身もそうなのだ。
 毎日のように利用者と多摩川の土手道を散歩しているが、時折ふと、不思議な気分にかられることがある。その不思議さを考える時、前掲の詩がしっくりと心になじんでくる。

【こまえボランティア情報第242号(2014年5月号)】

 

第2回「タケノコ堀り」

 町田市の郊外にラ・まのという知的障害者作業所がある。染織を中心としたその作業所に僕はボランティアとして通い、そこで働いていた女性と交際を始め、やがて結婚した。と、こんなふうに書くとドラマチックだが、実際は下心を秘めて彼女の仕事場に通っていたわけで、あまり運命的とは言えない。とにかく、それが僕のボランティア初体験で、自閉症者という不思議な人達との出会いだった。
 農家の建物を利用したその作業所は裏に竹林がある。僕が初めて訪れたのは五月のことで、作業所のメンバーはタケノコ掘りの最中だった。行ってみると、草刈り鎌で不器用に地面を掘っている女の子がいたので、見かねて声をかけ、手助けをしてあげた。実は、彼女は聴覚障害のある自閉症者だったのだが、そうと知らずに話しかけ、なんとなくコミュニケーションがとれていたことに不思議な思いがした。何も知らず自然体で接していたのが逆に良かったのだろう。
 僕が女房と付き合おうと決めたのは、彼女が「ツキを呼ぶ人」だと直感したからだ。実際、美術大学出身の女房はやがて知的障害者達を「アーティスト」として育てていく。一方で、僕にはなかなかツキが回ってこない。

【こまえボランティア情報第243号(2014年6月号)】

 

第3回「藍は生きている」

 僕がボランティアで通っていた町田市の知的障害者作業所「ラ・まの」は染織中心の工房で、敷地は元農家だから、雑木林あり畑あり庭園ありと豊かな自然に囲まれている。織り部屋にはカラン、パタパタと機織りの音が響き、縁側には色鮮やかな草木染めの糸束が干してある。ここの所長は染織の専門学校出身の若い職人だ。
 裏庭では四個の藍がめで藍を建てている。「藍を建てる」とは、藍を発酵させて染料にすることをいう。発酵させるということはすなわち、藍は生きているということだ。
 若い藍は色も濃く、藍の華と呼ばれるアブクがぷくぷく浮かんで盛り上がり、色艶もいい。老いていくと華もなくなりどんより衰える。染める時は老いた藍から順に、糸や布を浸けては絞りを繰り返す。その方がしっかりと色が染まる。若いだけでは駄目なのだ。
 藍染めの服は虫よけにも蛇よけにも病気よけにもなり、だからこそ昔は農民に重用された。やっぱり、藍が生き物だからだろう。「ラ・まの」の人たちは、藍を生かしながら、藍に生かされてもいる。
 染織に限ったことではないが、手間がかかるという理由で市場から消えていく伝統的な手仕事を、市場原理の外側にある作業所が引き受けていると考えると、作業所の持つ存在理由というか存在価値が、違って見えてくるのではないだろうか。

【こまえボランティア情報第244号(2014年7月号)】

 

第4回「不思議な人」

 前にも書いた通り、僕は知的障害者作業所「ラ・まの」で初めて自閉症者と出会い、彼らの不思議な言動にしばしば驚かされた。
 たとえばA子さんは、僕に会うといつも「志賀さん見て見て」と、携帯電話の画像を目の前に突き出した。彼女は電車で通っているのだが、定期を持たずに毎日切符を買い、必ず写真に撮るというこだわりがある。日付だけが違う切符の何十枚という記録写真は圧巻で、感動的ですらあった。「なぜ?」という疑問はさておき、彼女の活き活きとした毎日が切符の写真から伝わってくるのだ。
 A子さんはたぶんサヴァン症候群の人で、初対面の人に会うと生年月日や血液型から好きな食べ物嫌いな食べ物まで矢継ぎ早に質問し、聞き出したデータを正確に記憶する能力がある。だからなのか異常に勘が鋭い。
 十年くらい前の話だが、ある日のこと、僕が訪問するとは彼女に教えていないのに、僕が「ラ・まの」の玄関に立つより先に彼女が「あ、志賀さんが来た」と声を上げ、直後に「こんにちわ」と僕の声がしたと、(結婚する前の)僕の女房が後で話してくれた。
 これは超能力だと僕は言いたいのではない。実はもっと単純な理由で、彼女は僕の来訪を事前に察知したのかもしれない。それはともかくとして、この話を聞いた時、僕はなんだか嬉しくなったのだ。知的障害者と関わっていると、ささやかな出来事が奇跡のように思えてしまう瞬間があるのだ。

【こまえボランティア情報第245号(2014年9月号)】

 

第5回「機織りの音」

 僕の故郷(福島県南相馬市)は昔、機織りの里と呼ばれ、僕が子供の頃は機織り工場がそこかしこにあり、シャカコンシャカコンと音を立てていた。そのせいか今も機織りの音を聞くと懐かしさにかられる。
 町田市の知的障害者作業所ラ・まのでは、自然染めをした毛糸を利用者が織り、カラフルなマフラーやセーターを製作している。手織りなのでカタン、パタンというのんびりした音だ。きれいな柄にするにはそれなりの技術が必要だ。しかしある種の自閉症者は、複雑な工程も一度覚えれば軽いおしゃべりをしながら何時間でも続けていられる。ラ・まのに響く機織りの音が僕は好きだ。
 近在の民家が使わなくなった機織機を寄贈してくれたという。考えてみれば、自給自足が当たり前だった昔の農家は、家族が着る服は自分の家で作っていたのだ。家族が寝静まってから婦人が機織りをするのは普通の光景だった。日本人の無意識には、母親の機織りの音を子守歌代わりに聞いて眠った祖先の記憶が残っているのかもしれない。機織りの音は人間の生命のリズムに近いのだろう。だから聞いていて心地よいのだ。
 ところで、複雑な作業が苦手な障害者も多い。そこで作業にアートを取り入れたところ、思いがけない才能が次々に花開くことになった。次回からはそのことについて書く。

【こまえボランティア情報第246号(2014年10月号)】

 

第6回「障害者アートの可能性」

 「ラ・まの」が絵画制作に力を入れだしたのは、職人的な作業が苦手なメンバーでも生き生きと活動できる場が必要だと考えたからだろう。社会的には、知的障害者のアートが持つ純粋性や常識にとらわれない創造性や破壊力が、広く知られるようになっていた。
 美大出身の僕の女房がアトリエを担当することになったのだが、正直なところ、どれだけの作品が生み出せるのか、当初は誰も期待していなかったのではないか。
 ところが、いざ始めてみると予想もしなかった人がとてつもなく個性的な絵を次々と描き、周囲を驚愕させた。描いた本人は何も意図しないし狙いもしない。こうとしか描けないものを描いているだけなのに、人の心を妙につかまえるのだ。
 公募展で受賞したり、コレクターが買い集めたり、ある団体が雑貨等にデザインして商品化したりと、たちまち人気作家になっていく。しかし本人は、自分に何が起きているのかまるで知らない。誉められているという認識すらない。「ラ・まの」に来れば絵を描くという日常があるだけなのだ。
 喜んでいるのは本人よりも両親だ。両親がどんな思いで、どれだけの苦労を重ねて子供を育ててきたかを考えれば、喜びの深さもわかるだろう。障害者アートの可能性は、奇跡を生み出す可能性でもある。

【こまえボランティア情報第247号(2014年11月号)】

 

第7回「マラソン」マラソン

 今やすっかり定着した東京マラソンの次回は2015年2月22日(日)に開催されます。このマラソンは一定の条件(19歳以上で6時間40分以内に完走できること)をクリアすれば、障害があっても参加することができます。単独走行が困難な場合は、伴走者1人(盲導犬は不可)をつけることができます。但し車いす(健常者不可)の場合はレース仕様車で、2時間10分以内に完走できることが条件です。
 10kmで参加の場合は、16歳以上であることや視覚障がい者・知的障がい者・移植者・車いすの参加枠が明確に設けられています。
 そのほかにも障がいのあるなしに関わらず、同じコースを走ろうというマラソンは福知山マラソン、京都てんとうむしマラソン、かすみがうらマラソンなど各地で開催されています。大会によって条件は異なりますが、共に汗を流し完走した時の達成感はマラソンの醍醐味だと思います。伴走者についての資格条件は設けられていないようですが、障がい者が快適に走れる技術は必要です。
 日本盲人マラソン協会(http://www.jbma.or.jp/index.html)では、盲人マラソン伴走者の養成研修会を開催しています。また、障がいのある方とランニングやウォーキングを楽しむ「代々木公園伴走伴歩クラブ」(http://www.h6.dion.ne.jp/~okimo10/)という面白いクラブもあります。

【こまえボランティア情報第248号(2014年12月号)】

 

第8回「障害者アートの可能性」

 前回の続き。
 念願の作家デビューを果たしたものの、原稿依頼はほとんどなく無収入のまま月日は流れ、そろそろ働こうかなと就職情報誌を手にし、選んだ職業は警備員だった。なにしろ僕は四十を過ぎていたし、資格も特技もなかったので選べる職業は限られていたのだ。
 季節外れではあるけれど、花火大会の思い出を書いてみたい。二子玉川で開催される花火大会の警備に当たった時のことだ。
 浴衣姿の高校生男女五、六人が固まって通路を塞いでいたので声をかけたら、彼らは手話で返事をしたのだった。聾(ろう)学校の生徒らしい。僕は手話を解さないが、「座席がなくて困っている」ことくらいは勘で分かった。しかし警備員が観客の席取りに手を貸すのはルール違反だ。席がなくて立ち往生している人は他にいくらでもいる。けれど僕は聾唖(ろうあ)の少女を題材にした小説で文学賞を受賞しており、彼らがまるきり他人とは思えないという個人的理由で、団体客に訳を話して席を詰めてもらい、ブルーシートの隅に彼らを座らせてもらったのだった。いいことをしたと自惚れてはいない。警備員として明らかな越権行為なのだ。あのことを思い出すと今でも心は微妙だ。
 これはそれだけの話だが、妙に心に残っている。耳の聞こえない彼ら彼女らが、それだけ鋭敏に全身で受け止めていたに違いない、花火の起こす空気の波動、衝撃波の感覚に、今でもふと、思いを巡らすことがある。

【こまえボランティア情報第249号(2015年1・2月号)】

 

第9回「東日本大震災」

 東日本大震災は、大袈裟ではなく僕の人生を一変させた出来事だった。僕の実家は福島県南相馬市小高区にある。小高区は沿岸が津波で壊滅的被害を受けたばかりでなく、福島第一原発から二十キロ圏内にあり、全域が避難区域に指定された。自分の故郷が一年以上にわたり立入禁止になったのだ。
 小中学校の同級生を始め、多くの同胞が県内外へ散り散りに避難していった。僕は首都圏在住の有志と手分けして、同級生の避難先を調べて名簿を作成し連絡を取り合える体制を作ろうとした。被災した旧友に電話をかけて話をするのは一回一回が辛い体験だった。慰めなんて通用しない。僕のどんな言葉が相手をより傷つけてしまうかわからないのだ。
 忘れられない夢がある。避難中の同級生を慰労する会を催した夢だ。その帰り道、贈呈したはずの花束が道端に捨てられているのを見て、僕は愕然とした。さっき会場にいた同級生達が路上にへたりこんでいたのだった。「みんな俺の家に来いよ。好きなだけご飯を食べてくれよ。あったかい蒲団で寝てくれよ」と僕は呼びかけた。彼らの答えは「志賀に俺らの気持ちはわがんね」だった。その夢は今でも折りに触れ甦る。
 震災が僕に突きつけたのは、政治や原発問題以上に、人の傷みを知ることの難しさだった。しかしその困難を乗り越えないことには支援は始まらなかった。

【こまえボランティア情報第250号(2015年3月号)】