第10回「僕が民謡を歌った理由」
震災の年の六月、僕は福島県の避難所で、避難者の皆さんを前に「新相馬節」を歌った。まったくの独習。人前で民謡を歌うのは初めて。これがのど自慢なら五秒でカンと鐘が鳴る出来映えだった。 もちろん、僕が民謡を歌うに至るまでにはそれなりの経緯がある。震災直後、僕の住む川崎市でもボランティアを募集していると知り、担当課に電話をかけたが、「資格は? 特技は?」と質問された。しかし僕はこれといって取り柄のない人間で、あるのは被災地出身という強みだけ。とっさに「民謡が歌えます」と答えてしまったが、これは真っ赤な嘘で、地元だから民謡は自然と耳に入るが、実は鼻歌ですら歌ったことはなかった。 しかし、いつ何時呼び出され「君、歌いなさい」と命じられるかわからない。嘘を真実にすべく民謡のCDを探しだし、通勤電車で聴き、仕事中に口ずさみ、夜に風呂場で唸り女房に呆れられる修練を積み重ねた。しかし川崎市からは一向にお呼びがかからず、日々の努力は水泡に帰すかと諦めていた矢先、福島県の避難所でトークをする機会を得て、ここぞとばかり披露したわけだ。結果は前述した通り。それでも、被災者の皆さんは真剣に聞いて下さった。 このことは地元新聞に取り上げられた。記事には僕の発言として「故郷の人々を見ていたら歌わずにいられなかった」と書いてあった。言った覚えはないのに。
第11回「音楽を届けに」
震災の年の五月から六月にかけて、新日本フィルハーモニー交響楽団のチェリストと組んで福島県内の避難所や医療・福祉施設を回り、演奏会を開いていった。 震災で傷ついた心を癒すのに、チェロはおそらく最良の楽器だろう。避難所になった体育館の一角で演奏すると、チェロの響きがエンドピンから床に伝わり、床板が共鳴板になって人々の身体に心地よい震動をもたらすのだ。宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』に、病気になった野ねずみの子をチェロの孔に入れて演奏し治してしまう話があったが、ちょうどそんな具合だ。ダンボールの仕切りから出てきた人々が、思い思いの姿勢で床にくつろぎ、強張っていた表情を次第にやわらげていくのを僕は見ていた。 海辺にある精神病院で催した演奏会も忘れられない。一階は津波が押し寄せ滅茶苦茶に荒らされていた。ただし病室は二階にあったため入院患者は全員無事で、そのまま入院生活を続けていた。しかし、ただでさえ心を病んでいる人が、停電と断水と食糧不足が続く極限状態をどんなふうに耐えていたか、その精神世界は想像も出来ない。患者を支えていた医師の苦労も並大抵ではなかっただろう。 『セロ弾きのゴーシュ』ではチェロの響きを「あんま」とたとえていたが、演奏会は彼らの心を解きほぐすのに少しは役立てたのだろうか。
【こまえボランティア情報第252号(2015年5月号)】
第12回「がんばるゾウ」
僕の部屋に四年間飾られている、タオルのマスコット人形「がんばるゾウ」。 震災の年の五月、プロのチェリストと一緒にいわき市の避難所で慰安演奏会を開いた時、避難者の方からいただいた。 支援物資のタオルを元に、みんなでお金を出し合ってパーツを買い手作りしたもので、支援に訪れたボランティアの人たちにお礼として差し上げているそうだ。うれしかった。以来、「がんばるゾウ」は僕の宝物だ。 支援をし、何かを受け取る。受け取ることで支援者と被災者は対等になれる。形はなくてもいい。たとえば「元気を受け取る」もそのひとつだろう。ギブ・アンド・テイクが理想的な支援だと思う。一方的な支援は親切の押し売りになるばかりか、ともすると相手のプライドを傷つけてしまう。 「がんばるゾウ」君は、ただのお礼ではない。被災者のプライドであり、「生きる」ことの決意表明なのだと思う。
【こまえボランティア情報第253号(2015年6月号)】
第13回「被災地の高校球児」
一昨年の秋。日曜日の朝、南相馬市の海岸で防潮堤に立っていたら、ウィンドブレーカー姿の高校球児が五人、女子マネージャーの自転車に先導されて走ってきた。一帯は津波被災地。海辺の集落が押し流されて消滅し、見渡す限り草ぼうぼうの荒野に灰色の道ばかり残っている。その道を彼らは走ってきた。 球児たちは海岸に着くとひと息入れて防潮堤を上ってきた。彼らの背中には「小高工業高校 硬式野球部」の文字。僕はうれしくなった。小高工業は僕の地元にある高校だ。 福島第一原発から二十キロ圏内の小高区に小高工業はある。小高区が警戒区域に指定されたため、小高工業も他区にプレハブ校舎を建てて避難していた。 「俺も小高なんだ」と僕は声をかけた。 「僕らもです」と彼らは答えた。つまり彼らは全員が避難者なのだ。たぶん寮の仲間で自主トレをしているのだろう。小高工業野球部は強豪だが甲子園出場の経験はまだない。 「再来年は必ず甲子園に行きます。なぜなら僕らは一年で再来年は三年になるからです」そう彼らは明言した。未来を確信した声だ。確信するだけの努力はしているのだろう。背負っているものの大きさが彼らを強くしている。津波被災地の荒れ野に戻っていく彼らに「がんばれよ」と僕は声援を送った。 今年、彼らは三年生になった。もうすぐ福島県予選が始まる。できれば、甲子園球場で彼らの活躍を見たいものだ。
【こまえボランティア情報第254号(2015年7・8月号)】
第14回「そろそろ狛江の話を」
独身時代はよく、深夜に多摩川べりをサイクリングしていた。徹夜で土手道を走り、羽田の弁天橋で夜明けを迎えて引き返す。経験のある方はご存知だろうが、深夜の多摩川は意外とミステリアスな空間であり、疲労と睡魔で朦朧となりながら走っていると非日常的な感覚を味わえるのだ。 それはともかく、土手道を走っていると、なぜか舗装が切れて砂利道になる区間がある。距離は短いが、その区間は「謎の砂利道」として妙な印象を僕に残した。何でもないようだが、深夜には空間の異質性が際立つのだ。 そこが狛江市だと知るのはずっと後のことだ。僕はあいとぴあセンターの「麦の穂」という知的障害者施設で働きだし、「謎の砂利道」は利用者と歩く散歩道の一部になった。縁は異なものだ、本当に。 僕は、職場も人と同じく「縁」だと思っている。長続きするもしないも、つまりは縁なのだ。ただ、求人情報だけを見て縁のあるなしを見極めるのは難しい。「麦の穂」の求人情報は川崎市のハローワークで見つけたのだが、縁の有無を判断するために「一週間後にまた来て求人が残っていたら縁がある。消えていたら縁がなかったことにする」と決め、しばらく放っておいたのだった。その結果が今日に至っているわけだから、やっぱり狛江市とは縁があったのだなと思う。
【こまえボランティア情報第255号(2015年9月号)】
第15回「愛は忍耐である 」
「愛は忍耐強い」という聖書の言葉(コリントの信徒への手紙)を知ったのは、僕が重度知的障害者援助施設「麦の穂」に勤めだした頃のこと。当時、連絡板に留めてあった星野富弘の絵葉書に、麦の絵に添えて書かれていた言葉だ。本当は「愛は情け深い ねたまない 愛は自慢せず 高ぶらない」と続くのだが、「愛は忍耐強い」という言葉には心の底からしみじみ納得した。 なにしろ「麦の穂」は、僕がまるで経験したことのない世界だった。軽度の知的障害者なら僕も関わった経験があるが、重度の世界では僕の経験など役に立たなかった。言葉によるコミュニケーションが困難な人とどうコミュニケーションをとればよいのか。パニックを起こした人にどう対処すればよいのか。まずは忍耐から始めるしかなかった。 この仕事が愛だけで務まるとは思わないけど、愛なしで務まるとも思わない。忍耐を欠いた愛は「愛による支配」になりがちだし、それと「無自覚な虐待」は紙一重だ。障害者との関係に限らず、恋愛でも結婚でも同じことは言える。忍耐とは他人への配慮であり、配慮のない愛はもう愛とは呼べない。 なんだか今回は説教臭くなったな。今でも冒頭の言葉を時おり思い出すのは、逆に言えば忘れてしまいがちになるからだけれど。 そういえばこんな言葉もあった。 「愛とは決して後悔しないこと」(『ある愛の詩』1970年アメリカ映画)
【こまえボランティア情報第256号(2015年10月号)】
第16回「わからない」
わからない。なぜ自傷行為を止めないのか、どうでもよさそうなことになぜ執拗にこだわるのか、自我を押し通そうとしてなぜ自虐的な行動に走るのか。 「麦の穂」で働きだして初めの頃は、下手に理解しようとして対応を間違えることが多かった。重度知的障害者の支援は「ダメなものはダメ」を徹底することだと知るまでに実は長い時間がかかった。前回の話と矛盾するようだが、メッセージはシンプルな方が相手によく伝わるし、伝わることで自然と信頼関係は築かれていく。つまり「わかろうとしない」ことが逆に、回り道をしながら「理解していく」ことに繋がっていく。 何の資格もない、経験も浅い僕が何をエラソウに、と承知の上で書いているのだが、考えてみれば通常の社会生活でも他人がわからないのは当たり前なことで、わからなくてもそれなりに人間関係は成り立っている。無理にわかろうとする時は大抵、自分の側に不安がある時だから、わかろうとして逆に関係をこじらせてしまう。 よく言われるように、人は他人を見る時に実は他人を鏡にして自分を見ている。だから他人が「わかった」時というのは同時に自分が「見えてきた」時のことでもある。 同じように、利用者との関わりの中で、それまで見えていなかった自分が見えてくることがある。それが、利用者の内面を知る手掛かりになることもある。(ああ、今回も理屈っぽくなった)
【こまえボランティア情報第257号(2015年11月号)】
第17回「地上はどんなところだったか」
現代アート作家の内藤礼の映像作品に、『地上はどんなところだったか』というタイトルのものがある。小さな木彫りの人形をあらゆる場所に置き、撮影していったものだ。 人形が何を意味するのかはわからない。宇宙からの生命体かもしれないし、霊的な存在かもしれない。僕は、死んだ人の魂がこの世に還り、地球の空気をつかのま呼吸しているかのように思えた。 内藤礼は「地球に存在していることは、それだけで祝福と言えるだろうか」と問い続けている作家だ。もちろんこの問いは、祝福とは言えない現実があるからこそ重い意味を持つ。しかし人間のあらゆる活動は、究極的にはこの問いに「YES」と答えるためのものであるはずだ。 僕もいろいろと迷い、失敗を重ねながら知的障害者施設で働いているが、最終的には、利用者さんが死後に魂となり地上の出来事を振り返った時に、「地上はいいところだった」と心地よく思い返してくれればと願っている。何を不吉な、とお叱りを受けそうだが、誰の生命にも限界はある。もちろん僕にも。死後の魂を信じない人もいるだろうが、これはあくまで仮定の話だ。 今この時しか眼中にない時、虐待は起きる。しかし死後の魂まで含めた長いスパンで利用者を見ていれば、虐待など起こり得ないのではないかと思うのだ。
【こまえボランティア情報第258号(2015年12月号)】
第18回「紙を漉(す)く」
僕が働いている重度知的障害者の施設「麦の穂」では利用者の製品を催事等で販売している。主力商品は何といっても押し花絵葉書で、これは紙パックをリサイクルした手漉き葉書に、多摩川周辺で摘んできた野草や寄贈いただいた草花を押し花にして貼りつけたもので、なかなか評判がいい。 縁とは異なもので、僕のデビュー作『指の音楽』は手漉き和紙をめぐる話だ。この話を書くためにわざわざ越前和紙の里に取材し、世界的な和紙デザイナーに会ったりもした。高級和紙もリサイクル和紙も基本的な作り方は同じだから、その時の経験が今に活かされている。きれいな葉書を漉くことに熱中していたら、いつの間にか紙漉き担当になり、職人みたいな仕事を「麦の穂」でしている。 話はそれるけど、素晴らしい日本画や書は上質な紙の上にこそ生まれる。千年の寿命をもつ作品は千年の寿命をもつ紙の上にしか成り立たない。しかし画家や書道家は歴史に名を残しても、紙漉き職人は基本的に無名なのだ。紙漉きに限らない。僕が職人の世界に惹かれるのは、そんな彼らの「無名性の誇り」を気高いと感じるからだ。 そういうわけで「麦の穂」の押し花葉書については次回へ。最後にひと言。カラフル葉書の色づけには、この「ボランティア通信」の端っこも切り取って使っています。
【こまえボランティア情報第259号(2016年1・2月号)】
第19回「続・紙を漉(す)く」
自分で言うのもなんですが、「麦の穂」の押し花葉書は素晴らしい。自画自賛? そう、自画自賛です。嘘だと思うならあいとぴあセンター内ボランティアセンターのカウンター(ガラスケース)に展示しているのでご覧ください。もしもあなたの心が清らか、一点の曇りもない目で見るのであれば、必ずや「おお」と感嘆するはずです。 押し花作りは女性が、紙漉きは主に男性がします。葉書の材料は牛乳パックです。牛乳パックを切り分け、煮沸し、ラミネートを剥がし、ミキサーにかけて繊維に戻すのですが、そこに知的障害者施設ならではの工程が挟まります。カラフル葉書の色づけには雑紙を使います。紙テープも使いますが、リサイクルが基本なので捨てるだけの紙ゴミ(お菓子の包み紙など)には目を光らせています。紙ゴミの魅力は、使い方次第で意外な色を生み出せるところです。 悩みですか? 紙漉きは動作が複雑で(健常者には簡単でも利用者さんには難しかったり)、立ったり座ったりが多く(基本的にみんな動きたがらない)、緊張を強いる(水に手を入れるだけでもストレス)ので、苦手な人が実は多いことです。できるだけみんなに漉いてほしいのですが、無理強いはできません。 「私のことは嫌いになっても紙漉きを嫌いにならないでください!」と言いたいのです。
【こまえボランティア情報第260号(2016年3月号)】