第20回:「わかる」ということ
僕が好きな社会学者の内田樹(うちだ・たつる)さんは武道家でもあり、身体的思考ということをよく書いている。重度知的障害者の生活支援は「言葉以前」の人たちとコミュニケーションをとるのが仕事だから、畑違いのようでも意外と参考になる部分はあり、たとえば言葉を話せない、トイレサインができない人の失禁を最小限に抑えようとしたら、身体的な感受性を高めていく必要がある。 内田さんは、赤ちゃんにおむつをさせる習慣のない民族のことを書いている。お母さんはお腹に赤ちゃんを密着させるように抱いており、赤ちゃんの尿意をお母さんが感じ取ると、さっと赤ちゃんを前向きにしておしっこをさせる。だからおむつがいらない。なぜわかるかというと、赤ちゃんの体感とお母さんの体感が同調しているからで、内田さんはこれを「共感能力」と呼んでいる。他者の体感と同調する能力は合気道の重要な技法でもあるそうだ。 共感能力を高めていけば、言葉を話せない人とのコミュニケーションはスムーズになるはずだ。介助の上手な人はやはり、利用者さんの動きを模写するのがうまい。模写することで本人の気持ちがわかることもある。 僕も最近、「トイレサインはしてないけれどトイレを我慢してるな」と何となくわかるようになった(外れることもあるけど)。何でもないようだけど、ここまで到達するのに四年かかった。
【えくぼ創刊号(2016年5月1日号)】
第21回:「味」がある
墨というのは不思議です。一本の線を引くだけでも、そこに人間が現れます。「麦の穂」の利用者さんは重度の知的障がい者で、字を書くのが苦手な人がほとんどですが、むしろそれだけに、はっきりと個性が出るものです。 ほんの遊び心で墨書を始めてみたのは昨年のことです。字を覚えるとか、上手に書こうとかの目的意識はありませんので、象形文字や古代文字や変体仮名(草書体)など、その人に合いそうな文字を選んで見本を示し、あとは自由に書いてもらったのですが、出来上がる作品ひとつひとつの凄さに驚かされました。それらの作品には「意図」がないのです。意図がないぶん、作者の人間性が生(なま)のままで文字に出るのです。もしも芸術家が何も意図しないで創作できたら、間違いなくその人は達人です。 たとえば、手の動きが困難な人には最低限の補助をします。筆の動きはほとんど偶然まかせです。たとえ筆を倒しても失敗ではありません。しかし、書き上げた作品には何とも言えない味があります。意図しない凄みがあります。たとえば、私などがそれを真似て書こうとすると、どこかに嫌味が出てきます。受け狙いの嫌らしさがどうしても出てくるものです。 その差はとても微妙なのですが、はっきりと違うのです。 次回は墨書の作品を写真で紹介したいと思います。
【えくぼ第2号(2016年6月1日号)】
第22回:「味がある(2)」
今回は、前号で予告したとおり「麦の穂」で制作した墨書の作品をご紹介します。お手本を見ながらの作品にも個性が溢れています。文字を書くのが苦手な人だからこそ書けた、踊るような形です。
※左から【前衛書道(非文字)】、【古代文字(?)の「あ」】、【象形文字の「明」】、【象形文字の「龍」】、 【与謝野晶子の筆跡「さくら咲き」】、【宮沢賢治の筆跡「雨ニモマケズ」】。(ホームページ掲載者記述)
【えくぼ第3号(2016年7月1日号)】
第23回:ツルを折る
利用者の○○君は大柄な外見と裏腹に繊細なところがあり、一辺三センチ足らずのおり紙からホイホイと鶴を折る。ずんぐりした指をちまちま動かし、シジミ蝶ほどの小さな鶴を次々に生み出していく。ひとつとして同じものはない。どこかがずれていたりゆがんでいたりで、微妙に不格好なところがかわいらしい。折り目正しい鶴は気品があるけれど、くちばしも翼も尖ってツンツンしている。 ○○君の折り鶴を見ていて、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』を思い出した。自分が一番えらいと言い争うどんぐりたちに少年が申し渡した言葉。「このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」 手作り製品と機械製品の違いはどこにあるのか。ずれやゆがみは機械製品では不良品になるけれど、手作り製品では「味」になるということだと思う。「味」とはつまり「人間」のこと。人間はたぶん、ずれやゆがみの中にいる。そのずれやゆがみを愛おしむ心が、現代社会にある種のゆとりをもたらすのではないだろうか。
【えくぼ第4号(2016年8月1日号)】
第23回:六年目の「ありがとう」
原発事故のため五年以上も居住を許されなかった故郷、南相馬市小高区が七月十二日にようやく避難指定を解除され、住民の帰還が始まった。しかし僕は素直に喜べなかった。五年の間に故郷は取り返しのつかないくらい多くのものを損なってしまった。実に広大な土地が廃棄物置場と化し、土砂の調達のために山が削られ、復興のために故郷はかえって傷を広げていくように見えた。 七月二五日の夜、六年ぶりとなる花火大会が小高で開催された。浴衣姿の若い人たちが会場を目指して夕闇の街を歩く。そんな光景を見るのも六年ぶりだ。しかし家並みの大半は空き家のまま。震災の傷跡をいまだ残す家もあれば、すっかり取り払い更地にした土地も多い。住人不在の年月が重い闇のように街を覆う。それでもちらほらと窓明かりのともる家はあり、それがありがたいものに感じられた。 花火はかつての水田地帯から打ち上げられた。夜空に開く盛大な光が除染を終えたばかりの乾いた大地を照らし出す。オープニング・セレモニーは素晴らしかった。哀調を帯びた音楽が、この花火が多くの死者や遠隔地に避難している同胞への祈りでもあることを物語っていた。オープニングが終わり、人混みのあちこちから「ありがとう」という声が漏れ出た。僕はこれほどしみじみとして奥の深い「ありがとう」を聞いたことがない。それは誰かに向けた感謝ではない。いま自分が生きていることのすWべてに向けた「ありがとう」であるように思えた。
【えくぼ第5号(2016年9月1日号)】
第24回:相模原事件について
相模原の知的障害者施設で十九人を殺害した容疑者は「意思疎通できない人を狙った」と言うが、「意思疎通ができない人」は「意思」がないという意味にはならない。疎通とは双方向的な関係だから、容疑者が利用者を「意思疎通できない」と決めつければ、利用者だって容疑者に対し「意思疎通できない」と心を閉ざすだろう。なぜそこに気づかないのか。 容疑者だって、施設に就職した当初は自分の「善意」を信じていたのだろう。しかしその善意が一方的であれば、相手に通じないとわかった時点で善意はいとも簡単に悪意へと反転してしまう。特に珍しいことではない。自分を「いい人」と信じて疑わない人ほど厄介なものはない。彼らは決して反省しない。「いい人」の自分がすることは全て「いいこと」だと思い込んでしまう。 「一番危険な欲望は正義の顔をしている」という言葉がある。そして「危険な欲望とは他人を支配したいという欲望」なのだ。相模原事件の本当の怖ろしさはここにある。障害者差別とか生命の軽視とかは、実は二次的な問題ではないかと僕は思う。 この手の「正義」は、様々な顔をして世間に出回っている。そして、一旦この手の「正義」にはまってしまうと、自分がどれだけ他人を傷つけているか見えなくなってしまう。特別なことではない。案外、誰だって陥りやすい落とし穴なのだ。
【えくぼ第6号(2016年10月1日号)】
第25回:もしもあなたが
気がつくとあなたは、中東のどこか見知らぬ国にいる。周囲にはアラビア文字が溢れているが、あなたには読めない。人々の会話もちんぷんかんぷんだ。生活習慣が違うから、あなたが何かする度に叱られたり笑われたりするが、なぜなのか理解できない。周囲の人々が不自由なく日常生活を送っているのがあなたには不思議でならない。 なぜこんな世界にいるのか理由はわからない。とにかく、気がつくとそういう世界に放り込まれたとしか言いようがない。あなたは自分のいる世界を危険に満ちたものに感じる。自然、あなたの生活は限定的になり、安全と思える場所で決まり切った行為を繰り返すことになる。 不条理な世界だが、重度の知的障害者(特に自閉症者)の世界とはそういうものではないかと僕は想像する。だから知的障害者への支援とは、まず安心を与えることであり、彼の世界を生きやすくするための方法を見つけてあげることだと思う。 ところが、ある日あなたのもとにテロリストが乱入し、コーランを突き出され「読めない者は殺す」と脅迫されたとする。あなたには読めない。イスラム教徒に反感はないし偏見も持たないのに、それを伝える術はなく問答無用で殺されてしまう。この唐突な死をあなたは理不尽と思うだろう。しかし、相模原のやまゆり園で起きたことは、被害者からすればまさにこういうことだったのだ。
【えくぼ第7号(2016年11月1日号)】
第26回:合作は楽しい
合作は楽しい。以前に紹介したK君が折ってくれた千羽鶴をこれでもかと貼り付けて文字を作り、シュレッダー大好き君からもらった紙ごみをスプレー糊でシュッと固めて雲を表現。墨絵の大家J君には波を描いてもらい、男性の合作「ようこそ」の完成。 ティッシュペーパーに色をつけて千切りどんどん貼り付け、皺がよろうと色が混ざろうとお構いなし。下地ができたらこま切りにした端切れで文字を書き、女性の合作「ありがとう」の完成。どちらも10月26日の「健康まつり」麦の穂会場で披露し、「がんばってるね」とお褒めをいただいた。うれしい。 「麦の穂」は重度知的障害者の施設だから、絵筆を持つのも難しい人も少なくない。けれど、能力の違いは関係なしにみんなで参加する合作は僕の密かな野望だったのだ。きれいに見せようなんて考えない。ごちゃごちゃ、ごてごてを怖れない。「麦の穂」らしさが出ればいい。やりすぎるくらいやって、初めてアートになるのだ。
【えくぼ第8号(2016年12月1日号)】
第27回:差別といじめ
当たり前の話だが、差別は不平等な社会から生まれる。有史以来、完全な平等社会が実現した例はないし、たぶんこれからもない。だから差別はなくならないと言いたいわけではない。差別に排除の論理が働く時、差別は社会問題として浮上する。そして多くの場合、排除の論理は憎悪によって生み出される。 憐れみも憎しみも根っこは同じ差別感情から生まれる。人は他人を憐れむことで安心を得るが、憐れむべき存在が自分よりも得をしていると知った時、憐れみはいとも簡単に憎しみへとひっくり返るのだ。 福島県から避難した子供が転校先でイジメにあい、「賠償金をよこせ」とお金をせびられていたことが問題となったが、この問題に「イジメはいけない」と決まり文句を繰り返したところで何の役にも立たないだろう。 「社会的弱者」であるはずの避難者が賠償金という「不等な利益」を得ていると大人達が反感を抱けば、子供の心に影を落とさないはずはない。では、なぜ賠償金を「不等」と考えてしまうのか。そう考える側に自分も「弱者」だという自覚があるからではないか。問題の根底に格差社会がある。格差社会では人の心は不寛容になる。欧米がいい例だ。 私達の社会は不平等なものだが、それでも理念としての平等を忘れない社会を良識ある社会と呼ぶ。残念なことだが、我々の社会はどんどん良識から遠ざかっていく。
【えくぼ第9号(2017年1月20日号)】
第28回:本が出ました
このたび私の新刊が出版されました。 タイトルは『無情の神が舞い降りる』。小説です。舞台は福島第一原発から二十キロ圏内の町(私の故郷の南相馬市小高区がモデル)。震災直後からおよそ一か月間の話です。原発事故のために住民が避難し無人と化した町で、寝たきりで病身の母を看取るために避難指示を無視し、自宅にとどまった独身の四十男が主人公です。孤独と不安にさいなまれ自滅しそうになりながら、人間性を失うまいと必死で生きる主人公の姿を通して、原発とは何だったのか問いかける小説です。現実に、原発事故発生からしばらくは避難指示に法的規制がなかったため、家族の介護等の理由で二十キロ圏内に残っていた人は少数ですがいたのです。 ぜひ、読んでください。お願いです。原発事故の記憶を、風化させることなくあなたの胸に刻んでください。 定価1,600円(税別)/筑摩書房
【えくぼ第10号(2017年3月1日号)】